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ID/ASDっ子 母が何を考えたか健忘録 思索は変わっていきます。書いて、考えたい。書くことが発散。もやもやをつきはなしていきたい。

俺の気持ち 7.10のおわりに

デイサービスさんで、お姉ちゃん(息子は二年生なので、他の人たちはほとんど先輩なのですね)たちとこちょばしあいっこして、おやつも二人の間にちゃっかり座って食べたらしい。

 

えええ!

 

なんかだんだんと変わってきているのですね。

 

 

それぞれの子の発達のペースがデコボコではあるけどあるので、障害の特性の感覚とあいまったりして、ちょっとスタンダードっぽくないこともあるけど、社会性というのもだんだんと自分なりの距離感で縮まっていきます。

 

自分なりの距離感で。これがとてもいいことだとおもいます。

 

 

そして今年は、最後の方になって、自分と他者が 怖い不安 ということだけでなく、心地いい、とか 一緒になんか楽しさを共有したい。 の感じのふるまいがでてきて、とてもいいなとおもいます。

 

もし、この時代に、理不尽な感じで排他されたり、糾弾されたり、否定されたりしていたらとおもうと、ちょっとゾッとします。

そこは周りの人たちから幸せをもらいつつ、なんでもいいよいいよとはならずでよくて、失敗もしつつ、認められながらがあるのが、望ましい。

 

どの子も一緒。

 

学校の環境は、先生たちのかじとりがあったりとかしての平和もありますので、妖精みたいな人々の心の中で、彼の日常が織り成されていってるのかと思われ、感謝です。

 

そして、子供達は、自分たちが平和だと、他人にも平和をもたらす場合が多いです。

もちろん小さいいざこざはあると思うけど、それがまたいい。

 

そういう機会が否定され、不自然に超平和を強要されてて、虚構の平和みたいな現実のない場所にいたら、これもまたいびつな人間の形を作り出すのかもしれない・・・

 

 

なんとなく、大人たちが子供の心の安寧を保証してあげようと試行錯誤しながら、でもほおっておくというか、余白を見守っておくような感じをイメージしていきていきたいなと思う日々です。

子供たちを見てたらそう思います。うまい言葉が見つからないけど、自由なかんじがわたしよりもっとあって、物怖じしない感じも幼い子にはあって、その時期はそんな環境だったら、自分で自分や周りをええかんじに自分の中にとりこんでいきそうに見えてしまうので・・・

 

デイサービスにちょっと馴染んだので、ニコニコ行くようになりました。

不安ではないのだね。それで、お母さんがいなくても、いない場所で、遊ぶ時間がやっと保証できるようになりました。

(とはいっても、安全面とか知的さで見守りが必要な人に私には見えるので、職員さんという親ではない人だけど、見てる人がいるのは助かります)

 

いままで、子供たちとあそんでいても@近所。こどもたちからすると、**ちゃんのおかあさんがいて遊んでいる。というので、私も意識しながらの遊びで空気がちょっと、子供の世界っぽくない感じがしてたのです(わたしがね)

その子のおかあさんがいる。って気を使うよね。

 

だからちょっとよかった。ほんと。私が迎えにいってデイサービスさんに引きつぐ。そのとき、私に未練タラタラ(家に帰りたくて)だったのが去年の多くのモーメント。でも今は、あっさりと いってきまーす!です。

 

変化変化。

 

いやがってるのに、なんでいかせるんだろう。

なぜデイサービスに行きますか?とわたしすら思っていた去年。

でも、子供の遊び時間に私がいてるのは・・・とも思っていてもがいていた去年。

 

私の心も 変化変化。

でも無理やりいかせんでいいとおもってる。

いけたほうがいい、けどその子の成長の中で量を調整したり行く場所はえらんであげたらいい、悩んでいい。もがいていい。うまくいってないときもやもやする。そういうものだ。でもずっとはうまくいかない。すこしずつ、形になっていく。

そしてまた次に、もがくような事象が出てきて、もがいて、また真摯に向き合っていけば形になっていく。ただそれの繰り返し。

雲の形みたいに・・・